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2003年7月後半のdiary

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2003.7.15 /『ルチアさん』
2003.7.19 Mac OS9バージョンアップ/『閉じられた環 下』
2003.7.21 ドライバソフト再インストール/『マルドゥック・スクランブル The Second Combustion―燃焼』
2003.7.22 高校野球にドキドキ/
2003.7.24 /『黄金の騎士フィン・マックール ケルト神話』
2003.7.25 書店の売場移動/
2003.7.25 衝動的で短絡的/『マルドゥック・スクランブル The Third Exhaust―排気』
衝動的で短絡的 2003.7.28(月)

 お絵かき掲示板用の新しいアプレット、しぃペインター@【Javaなお子様的HP】を使ってみたくて使ってみたくて、しかし、お試し掲示板に描いてみるような勇気の持ちあわせはないので、自分で設置しようと躍起になっていた週末でした。

 最初はすでに設置してある掲示板CGIでアプレットを入れ替えればいいのかなと思ってたんですが、まだ対応していないようだったので、それじゃあ、あたらしく設置してみようかと。短絡的です。
 それでも極力面倒は避けたかったので、「鬼のように」簡単に設置できるという日記用CGI「nicky!」@【With Raelian】を選びました。なのになぜか(と思うのは自分だけで理由はちゃんとあるんだけども)文字化けしたり、エラーになったり、アプレットを認識してくれなかったりと、なかなかうまく動いてくれず。

 プログラムなんか全然わからないくせに、こういう状況って、なぜか燃える(苦笑。
 土、日、月と設置に励んでました。いや、子守りの片手間だったんで、寝食忘れてってほどではなくて、むしろ息抜きに近かったですが。そもそも、そんなに難しいはずはなかったんですよね。「鬼のように」簡単なんだからさ。

 最終的にはいったんあげたファイルを一度すべて削除して、スクリプトもダウンロードからし直して、まっさらな状態から呼吸をととのえ(?)、えいやとアップロードしてパーミッションを変更したら、なんの支障もなく動きだしました。

 このスクリプト、いま気づいたんですが、CGIのくせにすべてバイナリモードでアップロードするんですね…。もしかして、ここらへんがつまずきの元だったのだろうか。そのほかにも、ウィンドウズの「右クリックしてダウンロード」につまずいたり、アプレットの付属ファイルも必要だということに気づかなかったり、けっこうまぬけな間違いをいろいろとしました。子守りの片手間では、頭が働きません(言い訳)。

 これからしばらくしぃペインター使用法のお勉強をしようと思います。
 でも、最大の問題は、このCGIをこれから何に使用するかということだったりして…。

 冲方丁マルドゥック・スクランブル The Third Exhaust―排気(ハヤカワ文庫JA.2003.380p.720円+税)[Amazon][bk-1]読了。虐待された少女が自分を取り戻すために戦う、未来を舞台にしたアクションSF。『マルドゥック・スクランブル The Second Combustion―燃焼』のつづき。完結編。

 シェルの弱みを握るため、バロットとドクター、そしてバロットの手袋となったウフコックはシェルの経営するカジノへ客として潜入する。バロットが“楽園”で知り得たのは、その店に保管されている百万ドルのチップ中に、シェルの犯罪を裏付ける失われた記憶が入っている、ということだった。「殻も白身にも手をつけずに」それを奪い取る。ドクターとウフコックのサポートのもと、バロットはチップを手にすることだけを目標として、ディーラーを相手にブラックジャックのゲームに挑む。そのころシェルの雇った事件屋ボイルドは、バロットたちの足どりに迫りつつあった。

 読み終えてため息をつきました。まだ感情的にとっちらかってるので、意味不明の感想になりそうですが、ご容赦を。

 ラストに近づくにつれて、息をつく間もないアクションの連続に、なぜかどんどん視界がクリアになってゆくような意識にとらわれてました。とてつもないスピードで展開されているはずの、ひとつひとつの瞬間が、映画のワンシーンかそれをうわまわる、感触をともなった映像として目の前にたちあらわれているような。最後にバロットとボイルドがウフコックを挟んで正対したとき、私の時間は止まってました。そのページから目が離せなくなって、しばらく先に進めずになんどか眼で字面を追いかけては戻り、追いかけては戻り。いったい何をしているんだと思いつつ、その先を知ってはいけないのではないかと思いながらようやくページをめくったあとで、しばらく呆然としてしまった。なんで私はこんなにボイルドに感情移入してるんでしょうか。理解しがたい気がします。自分の手のなかから、ほんとうに、ちいさなぬくもりが消えてしまったような気持ちになるなんて。

 バロットがブラックジャックでカジノ最高のディーラーと対決しているとき(ここが最高におもしろかった!)の緊迫感と昂揚や、シェルの殺人衝動の裏にあった悲劇を知ったバロットが、自分が殺されるために選ばれた理由を理解したときの吐き気を催すようなせつなさや。ボイルドとの対決に向かうバロットとウフコックとドクターのやりとり。いつも煮え切らないウフコックがみせる決意のつよさ(愛の告白のように聞こえるウフコックのセリフ。喋っているのがネズミなのを忘れそうですが、ネズミだからいいんだと思いもするし)。ここを覚えていたいと思うシーンがいくつもあって、思う片端から忘れていくとわかっているのが悔しい。それくらい、印象的なシーンが多かったです。

 おもしろいとか、わくわくするとか、かっこいいとか、読後感がいいとか、そういう次元の話じゃないような気さえする、読みごたえたっぷりの物語でした。でも、重厚とか荘厳とかいう感触はなくて、タイトでクールな感じです。

 ちょっと残念だったところ。
 その1。オクトーバー社を創設したという人物と会いたかった。
 その2。オクトーバー社の重役がまぬけ。

 だれかれとなく薦めてまわりたい気分に陥ってるんですが、だれに薦めればいいんだろう…(汗。

書店の売場移動 2003.7.25(金)

 図書館に行って、腕時計の電池替えのために繁華街へ出て、本屋めぐり(っても二軒だけだけどね)。
 地下街に散らばる某書店。児童書コーナーが分離されたのはいいけど、四分の一は攻略本で、四分の一は絵本で、実質的にはどれも規模が縮小しているような。
 縮小といえば、文庫コーナーのライトノベル系の棚は半分に減っていた。最近、ライトノベルは売れてないんでしょうか。読書離れとレーベル乱立で過当競争気味なのかも。みるかぎりどの書店も棚が減ってるので、発売直後に買わないと永遠に手に入らなくなる危険がますます高くなってきたようです。買う本と借りる本の選別をもっと厳しくしたほうがいいかしら。最近、この違いが自分でもあんまりよくわからなくなってきていたりするんですが……買ってから半年以上読まずにほっといたりするから。

 以下購入。

 繁華街は相変わらずあちこちの店舗が閉店になったり店舗が移動したりしてましたが、カメラ量販店の時計売場までが移動しているとは。移動先は数百メートル先の新店舗。借りた本と買った本をかかえてひいこらいいながらやっとの思いでたどり着いた。雨が降ってなくて、助かった。(そういえば、折り畳み傘も持ってたから、よけいに荷物が重かったんだ;)。

 2003.7.24(木)

 ローズマリー・サトクリフ(金原瑞人、久慈美貴、共訳)黄金の騎士フィン・マックール ケルト神話(ほるぷ出版.2003.314p.1600円+税 Rosemary Sutcliff "THE HIGH DEEDS OF FINN MAC COOL",1967)[Amazon][bk-1]読了。アイルランドに伝わる英雄伝説を歴史小説家サトクリフが語りなおした一冊。

 おなじアイルランドの話なのに、先日読んだ『炎の戦士クーフリン』とは、ずいぶんちがう印象の物語でした。作者の前書き通り、クーフリンは荒々しい神話ですが、フィン・マックールは民話っぽい。一年間の奉公のあとで報酬を定める話がふたつ続きますが、罠だとわかっているなら行くなよ、と思ってしまっては、昔話は楽しめないんですよね(苦笑)。

 ほかにも、クーフリンの話の中の「ノイシュとディアドラの話」ともとはおんなじじゃないかと思われるディアミッドとグラーニアの話は、矮小化されているような感じを受けました。嫉妬に狂った英雄の姿の醜いこと。グラーニアの悪女ぶりやディアミッドとの関わりは、キリスト教の影響をうけているのだろうか。読んでいてあまり気持ちのよいものではありませんでした。これがアーサー王物語に受け継がれて、グウィネヴィアになるのかもしれない。

 女が原因で求心力を失った英雄は最後に華々しく散ってゆき、強者どもが夢のあと……こういう伝説を血肉として育つと、物語はすべからく寂寥感で終わるものというような刷り込みがなされるのかなと思ったり。

 ところでこの本、かつて沖積舎で刊行予告が出ていたのとおんなじものかしらん…?

高校野球にドキドキ 2003.7.22(火)

 全国的に夏の全国高校野球の予選シーズンでございます。
 暇なときに思い出したように地元テレビの中継放送を見ておりますが、今日の昼休みにやっていた試合には妙に感情移入してしまいました。見ていたのは、全国的に超有名でプロ野球選手を何人も輩出している私立の強豪校と公立高校の試合なんですが、なんと公立が初回にとった一点をずーっと守りつづけて、一点差のまま九回に突入したんですよー。

 公立側は投手の出来が素晴らしくよくて、守備のリズムもよくて、とても生き生きした表情でプレイをしてましたが、私立はかなり焦っている感じ。公立の投手のキレのよい変化球に、打者はタイミングが合わずになかなか安打が出ない。ピンチに陥っても冷静に切り抜ける公立バッテリーと守備陣。ヒステリックになってゆく私立応援団と、そのなかで淡々と自分の仕事をこなしていく私立の投手……。なんだかドキドキしながら見てました。

 結局九回表に私立が大量点を取って逆転勝利してしまったんですが、握力も落ちているだろうに投げつづけた公立の先発投手がマウンドを降りたときの涙と、二番手として出ていって私立の怒濤の攻撃をとめられなかった投手の落胆の表情、それぞれがとても印象的で。見ている私は、まるで野球マンガのヒロインにでもなったような気分になっていた(苦笑)。

 育ちきらない少年たちの、華奢なユニフォーム姿がいとおしい、今日この頃(ババ臭いぞ)。

ドライバソフト再インストール 2003.7.21(月)

 iMacが音楽CDを認識しない問題は、ドライバソフトが壊れていたことが原因だった模様です。
 Appleサイトのサポートにあるトラブルシューティング「iMac:CDまたはDVDがデスクトップで認識されない」を見て、とりあえずできることを順番に試すことに。しかし一番簡単そうなドライブのクリーニングは、クリーニング用のCDがどこかへ消えてしまい、できなかった(今度買っておこう)。
 システムソフトウェアCDからの起動はクリア。その後、機能拡張を基本まで減らして再起動させても認識はしないので、システムソフトウェアCD-ROMからドライバソフトApple CD/DVD Driverを再インストール。そしたら、あっさり認識してくれました。意外と簡単にすんでよかったです。
 iMacは一度もリストアしていなかったので気づかなかったけど、インストーラーが以前より使いやすくなっていたのがうれしかった。前はひとつのドライバだけ再インストールなんてできなかったような気がする。フォントはできたけど。
 だけど、なんでこんなところが壊れたりするんだろうなー。不思議。何ヶ月かまえにATMをインストールして不具合が出たけど、あれのせいだったのだろうか。壊れたら、「壊れたよ」と教えてくれると助かるんだけど……無理か。

 OSをバージョンアップしたPower Book G3は今のところ快調です。ひどいと日に四回くらい起きていたフリーズがまだ今日は一回も出現していない。ブラウザは一回落ちたけど。落ちるのはいつもあのページなんだよなー。ブラウザへの割り当てメモリ、もっと増やさないとダメなのかも。

 冲方丁マルドゥック・スクランブル The Second Combustion―燃焼(ハヤカワ文庫JA.2003.344p.680円+税)[Amazon][bk-1]読了。『マルドゥック・スクランブル The First Compression−圧縮』のつづき。

 シェル=セプティノスの雇った事件屋、ディムズデイル=ボイルドによって隠れ家は破壊された。ドクターは浮遊移動式住居(フライング・ハウス)によって、バロットとバロットの濫用によって傷ついたウフコックを“楽園”へと連れてゆく。バロットはそこで、“楽園”のなりたちとドクターやウフコックの過去について知る。浮遊移動式住居(フライング・ハウス)を追跡したボイルドは、獲物がかれもかつていたことのある場所に逃げ込んだことを知り、策をめぐらせていた。

 “楽園”とそこの住人であるトゥイードルディーとトゥイードルディム、ドクター・フェイスマンなど、今回も強烈なキャラクターが多数登場。
 でも、やっぱりボイルドの殺伐とした心象風景と、容赦のない暴力が頭ぬけている。このひと、すでに怪物と化してますね。破壊することにしか生きている意味を見いだすことのできない、殺人機械のような男のこころの中のウフコックの存在の意味が明らかになるシーンでは、哀しいような気分になりました。

 こういう話でカジノのシーンを読むことになるとは思わなかったけど、ゲームの描写はギャンブルのスリルと興奮に満ちていておもしろかったです。ドクターのギャンブルについての講釈は、難しくてわけが分かりませんでしたが(苦笑)。つづきを期待。

Mac OS9バージョンアップ 2003.7.19(土)

 ことの起こりはiMacで音楽CDが認識されないことでした。CDドライブに音楽CDを挿入すると、読めない形式だからフォーマットするかと尋ねてくるのです。「そんなこと、誰がするか」と排出させました。それから他のCDをいろいろと入れてみましたが、結果はおんなじ。CD-ROMはきちんと認識されるので機械的なことではないだろうと推測し、Appleのサイトでトラブル情報を探しはじめました。

 そこでCRTのiMac情報をうろうろとしているうちに、目に入ったのがMac OSのアップデート用データ。
 思わず眼の色を変えてしまいましたよ。かつてお金がないからと買わなかったMac OS9.2.2までのアップデータが、タダでダウンロードできる?

 最近PowerBookG3の調子は最悪で、ブラウザは再三落ちまくりだし、そのたびに再起動するのに再起動直後に固まったりする。なのにノートン先生は問題ないよとおっしゃる。不安定なので、いつもは二ヶ月くらいほったらかしのバックアップを二週間おきにやったりしてました(いや、これでも間隔は開きすぎだとほんとは思います)。
 その原因を自分なりに推理すると、なんとなく契約中のADSLサービスがサポートしていないOpen Transportを使用しているせいじゃないかと思えてきました。でも、使用中のOS9.0.4が最新バージョンのOpen Transportに対応していなかったので、現状維持のままでいたんです。
 しかし、OSのアップデータが手に入るというなら、話は別です。最新バージョンのOpen Transportが使えるところまでOSをバージョンアップできれば、もしかしたら、この不具合は解消される、かもしれない?

 というわけで、早速決行しました。アップデータのダウンロードと、アップデータによるOSのバージョンアップを。
 AppleのサイトからMac OS 9.1アップデータをダウンロード(MacOS9の最上位バージョンはMacOS9.2.2だけど、私は最低限の機能が実現すればそれでいい)。機能拡張マネージャーで「MacOS9.0.4すべて」を選んで再起動。あとはインストーラーを起動させてインストールしていくだけです。
 本当は一番初めにデータのバックアップをするべきなんですが、忘れてすっとばしてしまいました。インストール中に気がついて「あ、まずい」と思ったのですが、そのまま強行。インストール完了後、最初の再起動後も、機能拡張を戻したあとの再起動後も、ちゃんと動いたのでほっとした。
 バージョンアップでOpen TransportはADSLの対応バージョンまであがっていましたが、あとで念のために最新バージョンにしておこうと思います。

 で、結局、横道にそれたせいでiMacのCD問題は未解決。

 ロバート・ゴダード(幸田敦子訳)閉じられた環 下(講談社文庫.1999.338p.648円+税 Robert Goddard "CLOSED CIRCLE",1993)[Amazon][bk-1]読了。ミステリーロマン『閉じられた環 上』のつづき。

 五月の終わりに上巻を読んだ。そのときに抱いた印象よりも話は小粒だった。
 ストーリーはとてもスリリングに展開するものの、人物像がなんだかあいまい。心理描写が浅いというか。とくに敵方の人物はストーリーのためだけの存在という印象だった。一番の謎は、ヒロインのダイアナ。彼女は話を複雑化し、謎めかすためだけにいたように思うのは私だけでしょうか。
 映画やテレビの二時間ドラマにちょうどいい話だなというのが、最終的な感想。役者さんの味付けと演出でもっと深みを増すことができるような気がする。
 ただ、最後のエピソードはいいなあと思いました。徒労感漂う物語の終焉に、思いがけない人の温かみに触れたような終わり方で。

 2003.7.17(木)

 高楼方子ルチアさん(フレーベル館.2003.162p.1300円+税)[Amazon][bk-1]読了。「ずいぶんむかしのあるところ」を舞台にした童話。

 ふたりの姉妹スゥとルゥルゥは、母親とふたりのお手伝いさんと一緒に《たそがれ屋敷》とよばれる一軒の家で暮らしていた。父親は外国航路の舟に乗る仕事をしていたため、滅多に帰ってこない。スゥとルゥルゥは学校にも行かず、屋敷の中だけで過ごしていた。そんなある日、卵のようなすがたをしたルチアという名前の新しいお手伝いさんが《たそがれ屋敷》にやってきた。とても不幸なことがあったため、人助けとして雇われたらしいルチアさんだったが、その姿からは不思議と不幸なようすが見うけられない。それどころか、スゥとルゥルゥにはルチアさんがいつも水色にぴかぴかとひかって見えた。そのありさまは、父親の遠い国からのお土産の、ゆたかな水色をした石とよく似ているようだった。

 装画に惹かれて借りてきた本。渇いてパサパサで焦燥感バリバリだった気分に、なんとなくほんわりとしたうるおいをくれました。ルチアさんの水色のかがやきと「どこか遠くのきらきらしたところ」へのあこがれ。うーん、なんといえばいいのかな。人間はただものを食べて生活しているだけじゃ、幸せにはなれないってことだろうか。「どこか遠くのきらきらしたところ」を求めるこころをつねにもちつづけることの大切さと難しさが、やわらかなやさしい文章で描かれていたように思います。
 こころの滋養はひとそれぞれだろうけど、「ゆたかな水色の宝石」の輝くさまをえがく言葉のゆたかさに私はほっとさせられた。言葉に栄養をあたえてもらうことも、実際にあるんだなあと思いました。


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